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12月28日
「子としての身分」 ガラテヤ人への手紙4:5 

ユダヤ人社会では富裕層の人たちは自分の子を自ら養育せずに召し使いである奴隷に養育を託す。親子でありながら奴隷の支配下にはいってしまうのである。しかしある時期がくると養育係の下から離れて子としての扱いを回復する。同じ親子という関係でありながら双方には支配を受ける作用が違う。
 キリストを信じた私たちも同様である。まだ信じたての未成熟な時は律法によって示される聖さの基準を自ら守るべき戒律と受け止めてしまいがちであるが、自ら守れないと理解するならば、頼るのは救い主であるキリストのみであり、信仰によって父なる神とつながるのだと知る。「アバ、父」とは「お父ちゃん」という意味である。親しみを込めて父なる神様を呼ぶことができるよう、私たちにキリストの贖いが備えられた。行いによらないで下される愛と恵みに感謝しよう。

 

12月14日
「平家物語と聖書」 伝道者の書より  

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ

祇園精舎の寺の鐘の音は、万物は刻々と変化していくものという響きがある。
沙羅双樹の花の色は、盛んな者もいつか必ず衰えるという道理をあらわしている。
権力を誇っている人も、永久には続かない。それは春の夜の夢のようなものだ。
強い者も最後には滅びてしまう。それは全く風の前の塵と同じだ。

「これは新しい」と言われるものがあっても、それは私たちよりはるか先の時代にすでにあったものだ。今の人は、昔の人がしていたことをただ繰り返しているに過ぎない。この世の人生は、空しい。伝道者の書1章

平家物語と聖書 共通するものがあると感じるのは私だけでしょうか?

 

12月7日
「信じる者になりなさい2」 ヨハネ:20章19〜30節 

イエス様は神様のひとり子です。全く罪のない方です。人間はこのイエス様を信じるどころか、十字架につけて殺してしまったのです。これは歴史上、最大の過ちです。人間は取り返しのつかないことをしたのです。その結果人間は神様から見放されて、滅ぼされてもしかたありません。
 しかし、私たち人間の罪、永遠に裁かれなくてはならない罪を解決するために、イエス様は十字架の上で、身代わりに罪を背負って命を捨ててくださいました。イエス様の十字架は、人間が犯した最大の過ちです。しかし同時に、神様が人間を救う唯一の方法でもあったのです。
 そしてイエス様は3日後に死の力を打ち破って、完全なからだになってよみがえってくださいました。イエス様を信じる者はやがて死にますが、それで終わりではなく、完全なからだとなり、永遠の命に預かる者になるのです。どうかこのイエス様の十字架とよみがえりを信じる者になってください。

 


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11月30日
「ひとりごをお捨てになるほどに」  ヨハネ3章16節 

聖書は2377言語に訳され、20世紀中に3880億冊以上が世界に頒布された書物であり、ベストセラーとして毎年ギネスブックにその名を挙げている。世界一の書物にどんなことが書かれているのだろうか。愛が必要、であり、その愛とは神様の愛である。神様は実在の方で、世界はおろかその世界中のすべての生き物をつくられた方である。その方の前に、人間はどう生きるべきなのか「真の生きがい」についてである。生きている私たちは実は日々罪を犯している。罪とは、自分中心という生き方である。自分の考えが最もバランスがあり、自分自身は決して、責め立てられるほど悪くはない、という考え方を指す。罪は裁かれるが、イエス様の言葉に、あなたを責めたり軽蔑する言葉は無い。ただ、愛している、ということだ。ひとり子をおあたえになった、という記述は、原語によると、ひとり子を捨てても構わない、ということだ。すなわち、神様があなたのために命を捨ててくださったのだ。イエス様は今もあなたを呼び求めておられる。ぜひ、まことに神様に立ち返り、あなたの心をイエス様に向けていただきたい。

 

11月23日
「2つの選択肢」 ルカの福音書23章32節〜43節 

多くの人は占いを好み、毎朝各局のニュース番組では必ず星占いの情報が流されている。またある人は方角を気にして、窓や扉の向きにやたらとこだわる。しかしどうこだわったところで、私たちが住んでいる地球は宇宙空間を回転運動する天体なので、まるで意味がなくなる。では、そういった愚かしいことに縛られてしまうのはなぜだろうか。自分の人生がどうなるかわからないという不安を抱えているからである。しかも、いつだって「やり直しがきかない」と思っている。人生のやり直しは本当にきかないのだろうか。本当にあるべき人生とは何だろうか。ルカによる福音書23章にはイエスキリストとともに十字架に掛けられた2人の強盗の記述がある。1人はイエス様を罵ったが、1人はイエス様を信じた。残された人生というのは数時間であったが、イエス様を信じた彼の人生は栄光の人生と転換した。不安を平安に。イエス様を信じていただくよう心からお勧めしたい。

 

11月9日
「信じる者になりなさい」 ヨハネの福音書 20章19〜30節 

 イエス・キリストが十字架につけられて殺されたこと、そしてよみがえられたことは歴史上の事実です。いまだかつてイエス様がよみがえったことを、完全に否定できた学者は一人もいません。ですから問題は「イエス様のよみがえりなんて信じられない。」と主張する人間の心にあります。弟子のトマスもイエス様がよみがえられたことを、はじめは信じることができませんでした。しかしイエス様はトマスを見捨てず、トマスの前によみがえられた姿をお見せになりました。
 そしてイエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これは「目には見えなくても、正しいものを信じることができることは幸いです。」という意味です。神様の存在、人間の罪、天国と地獄の存在、イエス様が神のひとり子であることそしてイエス様のよみがえり、これらは目には見えません。けれども、人生そして永遠を左右する重要なことであり、信じなければならない正しいことです。

 

11月2日
「真の勝利者」 

 ゴスペルシンガー小坂忠さんが、ロス五輪女子マラソンで、スイスのアンデルセン選手がふらふらになりながらも棄権せずにゴールした姿を見て『勝利者』という歌を作りました。「一位を獲るためだけに走るんじゃない。金や銀や銅じゃなくてもいい。これが人生だ。彼女の姿を見て、ヒット曲のために歌うんじゃない。ひとりの人の心に感動を与えられたら、それは大ヒットだと思った」たとえ売れなくても、自分が信じる歌を力の限り歌う小坂さんは、そんな思いで「勝利者」を作られたそうです。人との争いに勝った者が勝利者でなく、傷つき悩みながらも前に向かう者が本当の勝利者だと歌っておられます。〜勝利者はいつでも傷つき悩みながらそれでも前に向かう〜

 


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10月26日
「心を騒がしてはなりません」 ヨハネ14:1 

心が騒いでいる、という状態はどういう状態をいうのか。トラブルの状態であると言える。私たちはどういった状況に遭遇すると心がトラブルの状態になるだろう。私たちの多くは、多かれ少なかれ漠然とした不安を抱えて生きている。それは将来が見えないから、ということが理由といえよう。私たちの将来は確かにどういった状況が備わっているかは知ることができないが、ただ確定的に言えることがある。それは命の締め切りは死である、ということで、さらにその締め切りが何時であるかがわからない、ということだ。では、いのちの締め切りを見据えた生き方とはどういう生き方だろうか。聖なる方、恵みに満ち溢れた神様に与えられた人生である、という信仰に基づく生き方だ。そそてこの神様は、私たちの不幸を企てておられる方ではない。だから、聖書のみことばに記されているままに、主を信じて、生きていこうではないか。

 

10月19日
「救いについて」 ルカ:7章36〜50節 

私達は意識してもしなくても罪を持っている。罪に対しては必ず罰があり裁きがある。しかし真の神様は「自身の御子イエス・キリストを私達の罪の罰の代価のため十字架にかけ、真の神様であることを示すために三日目の朝に復活した」ことを信じれば永遠の裁きではなく永遠の天国に導くという救いを与えてくれた。
この救いは、ルカの福音書の例え話にでてくる二人の破産者を見返りなしに救う金貸しのように、罪人である私達を見返りなしに救うという恵みによるものである。また救いは二人の破産者が受け入れなければ意味がないように信仰によって受けとられる。さらに聖書が語っていることから救いは確実であるということもわかる。
最後に救いは恵みであるからといって無代価≠安価ではなく高価である。今一度救いが与えられていることに感謝したい。

 

10月12日
「アナニヤの信仰」 使徒9章1〜20節 

この箇所にて「クリスチャンを迫害する者・サウロ」から「伝道者・パウロ」に方向転換するわけですが、今回はそのきっかけとなったアナニヤの信仰から学びます。
この頃のパウロはクリスチャンを迫害する者でした。捕縛するだけでなく、しばしばクリスチャンを殺害までしてました。神様がアナニヤに「サウロの所に行きなさい」と命じたのは、サウロの時のように天からの声で示したのではなく、幻、つまり夢の中で命じたのです。「もしかしたら、ただの夢なのかもしれない」と迷うかもしれません。相手は自分を殺す可能性もある人物ですから。しかし、アナニヤは神様の言葉を信じてサウロの所に行きました。
私たちも同様に、目に見える不安に迷ってしまうこともあるかもしれません。
そんな時にはアナニヤの信仰を思い出して勇気を持って歩んで行きましょう。

 

10月5日
「弟子たちとイエス様」 ルカの福音書18章31〜34節

 イエス様はまもなく捕られる前に、弟子たちを呼び、これから自分が
十字架で殺されることをお語りになりました。しかしイエス様の話を聞いて、弟子たちは何一つ理解できませんでした。弟子たちはいつもイエス様のそばにいました。でも、心の状態はイエス様から遠く離れていました。しかもイエス様が捕まった時に、弟子たちは逃げていきました。
イエス様はたったひとりで十字架への道を歩まれたのです。イエス様は孤独でしたが、これは神様のみこころでもありました。
 この箇所から分かるように、イエス様が歩まれる十字架の道、そして十字架上での罪のあがないというのは、人間が協力することは決してできません。人間の罪のあがない、永遠の滅びからの救いは、イエス様がひとりで成し遂げてくださったことなのです。人間の力を必要としないのです。これは神様からの一方的な恵みであることを、ぜひ理解してください。

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9月28日
「恐れるな」 詩篇49:15節〜20節 

鏡は人のありのままの姿を映し出す。聖書は人間の真の姿、心を映し出す鏡とも呼ばれている。それは、罪人である、ということと無力である、ということだ。17節の言葉は真実である。確かに人は、どれほどその人生のなかで立派な偉業を積み上げ、富や名声を積み上げても、死んでしまったのならば何一つ持っていくことはできないし、死の前に役立つものを人間は生み出すことはできない。「永久にあきらめろ」と聖書は重ねて人間に宣告する。では、私たちは人生をあきらめなければならないのだろうか。同時に聖書は「恐れるな」とも語る。神様は私たちに成り代わって永遠のいのちにいたる身代金を支払ってくださったのだ。まさにイエスキリストの十字架の御業がそれである。人には絶対に支払うことができない命の代価を、イエスキリストはそのいのちを犠牲とすることで購ってくださった。死の前に無力であった私たちが信頼すべきはこの方である。人生の最大の励ましを手に入れていただくよう心からお勧めしたい。

 

9月21日
「親の思い・神様の思い」 詩篇141:5 

 正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。
それは頭に注がれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。


 自分の悪いところを注意されているのに、素直に言うことを聞かない子供がいます。親は子供が憎くて怒っているのではなく、子供を愛するがゆえに、その子のことを思い、その子が良くなるように願って叱っているのに、子供にはなかなか「親の思い」が通じないようです。
 では、私たちはどうでしょうか。私たちも神様に対して同じようなことをしていているのではないでしょうか。神様は私たちの創り主です。また神様は私たちのことを愛しておられ、その大きな愛のゆえに、ご自分のいのちを捨ててくださいました。しかし、多くの人は「神なんていない。イエス・キリストの十字架なんて関係ない。」と言って、神様を無視して歩んでいるのです。まるで親の言うことを聞かない子供のようです。
 どうか皆さん、「神様の思い」を知ってください。そして素直な子供のように、自分の罪を認め、イエス・キリストの十字架の死と復活を、我が為なりと信じてください。

 

9月14日
「イエス・キリストとは誰ですか」 マタイ:14章・16章 

 イエス・キリストとは誰ですか?彼は荒れ狂う海を沈めて自然の力を
支配しました。彼は薬を用いず病の人を癒し、子どもの食事を増やして何千人もの人々に食事を取らせました。悪霊までもが彼に従い、死人をも生き返らせました。しかし、彼は人々から嫌われ拒絶されました。彼は無実であるのに民衆から非難され、十字架による死の宣告を受けました。
 イエス・キリストとは誰ですか?イエスは苦しみと死を通して、御自分を信じるすべての人々の罪の代価を支払ってくださいました。ある人は他の人のために自分の命を犠牲にします。そして偉大な人も現れては死んで行きます。しかしイエスは生きています。死は彼を滅ぼすことはできません。彼は死に勝利し、三日目によみがえられたのです。
 イエス・キリストとは誰ですか?マタイ6:15で、イエスはこのように表現しています。“あなた方は、わたしを誰だと言いますか?シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは生ける神の御子キリストです。」” 
 それでは今あなたに問いかけます。 「あなたは彼を誰だと言いますか?」

 

9月7日
「ペテロの裏切り」 ルカの福音書22章47〜62節

 ペテロは「イエス様のためならば死も覚悟している。」と言っていました。ところがイエス様がつかまると、ペテロは三度もイエス様の弟子であることを否定しました。彼は自分の身を案じて、イエス様を裏切ったのです。彼の自信や誇りは打ち砕かれ、大きく傷ついてしまいました。しかしそうなることをイエス様は知っていました。だからあらかじめペテロに対して「あなたのために祈っている。」と言われたのです。それだけではありません。このあとイエス様は十字架で殺されますが、3日後によみがえられました。そしてペテロの前に現れてくださったのです。ペテロにとって、これ以上大きな励ましがあるでしょうか。
 イエス様は私たちの弱さを理解してくださるだけではありません。自分の弱さに落ち込み、傷ついているそのような私たちを立ち直らせ、そして励ましてくださる、そのような力にあふれた方なのです。そのことをぜひ覚えてください。

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8月31日
「私の目にはあなたは高価で尊い」イザヤ書43章 

大佛師という職人が居る。まれに見る仏像作りの彫刻家で、テレビ番組で非常に特別扱いされていた。1本の彫刻刀で繊細な表現をほどこす職人も、礼拝する対象を製作することで給料を得て生活している。人間が勝手に権威ある神様を商材化しており、「拝む心が大事」どころか、神様を冒涜する行為に他ならない。まことの神様を見下し、人間本位に考える生き方は「罪」と呼ばれる。罪は裁かれなければならないが、その裁きを身代わりに負って下さるために、イエス様は十字架にかかって死んでくださり、イエス様を救い主と信じる人を許してくださる。人間は、なかなか他人を許せないものだが、そもそも私たちは造り主を冒涜していたにもかかわらず、造り主の血潮により、造り主から永遠の赦しをいただいたのだ。神様の赦しこそ、本物の愛といえよう。

 

8月24日
「永遠のいのちへの水」 ヨハネの福音書4章  

昨今、「むしゃくしゃしていた」「死のうと思った」という動機の通り魔事件が横行している。人はどうして凶悪な犯罪を犯してしまうのだろうか。さまざまな分析があるが、ひとつ言えることは、人は満足していないと問題を起こしやすい、ということだ。事の大小はあるが、私たちの心にあって同じことが言えるのではなかろうか。
 サマリヤの女は心の満足を求めるために数回結婚した。しかしいずれも彼女の幸福感を満たすものではなかった。本当に私たちを幸福にさせるものはなんだろうか。聖書は「うちから湧き出る泉」と述べる。すなわち、人を悩ませる根本的な問題の解決と死後の永遠の解決である。イエス様は私たち人間の最大の悩みである罪を解決するために十字架の上で死んでくださり、よみがえってくださった。イエス様の許に罪の赦しと永遠のいのちが備わっている。ぜひイエス様を受け入れてくださるよう心からお勧めしたい。

 

8月17日
「預言者エレミヤ」 エレミヤ書1章・29章

 エレミヤは自分が若く、語るのに臆病なので主に預言者として選ばれたことに不安を感じていました。しかし主は何度も彼に、恐れるな救い出す。と約束されていました。(1章)
 事実自国が壊滅した後も主が建て直すと約束されたことを信じきり、もう一度国を取り戻しました。(29章)
 私たちも何故自分が救われたのか不安になるときがありますが、神様は、エレミヤを母の胎の内にいるときから預言者として定めていた(1章5節)ように、私たちも生まれる前から神様に選ばれていました。
 この事を今一度覚えつつ、感謝出来れば幸いです。

 

8月10日
「罪と意識」 ルカ7章36節〜50節 

 シモンと罪深い女性はともに罪人でありながら、それぞれの罪に対する意識が異なっていました。罪深い女性は文字通り自身が罪人であるとみとめていたのに対して、シモンは偽善と傲慢の罪に身をおき、なにが罪かを理解しながら罪から離れた生活をせず、裁きのときには神様が裁くことを見ずに、人の目に移らなければよいという意識のもとに行動していました。
 私達は罪の数という視点から見た時に、神様の前ではみな裁かれるべき者ですが、イエス様の十字架と復活という救いが与えられています。この女性のように今一度自身が罪人であることをしっかりと覚えてイエス様の救いに感謝したい。

 

8月3日
「ユダの裏切り」 マルコの福音書14章12〜25節 

 ユダはイエス様を裏切った弟子として有名です。しかし他の弟子たちもみな、イエス様が捕まった時、イエス様を捨てて逃げてしまったのです。もちろんイエス様は、そのことが分かっていました。にもかかわらず、イエス様は弟子たちを愛していました。そして過越の食事の時、弟子たちに、「パンとブドウ酒」のことを教えられました。この後、ユダは自分が犯した罪の重さに耐えられなくなり、自殺してしまいます。しかし、他の弟子たちはイエス様がよみがえられた時、イエス様のところに戻って来ました。そして自分たちが犯した罪をイエス様に委ねたのです。
 私たちも犯した罪を、自分の力で何とかしようとしてしまうことによって、自分自身をたいへん苦しめてしまうことがあります。まず、私たちを愛し、私たちの罪のために肉を裂かれ、血を流されたイエス様のことを覚え、神様に感謝して歩みましょう。

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7月27日
「よきサマリヤ人」 ルカによる福音書10:25 

この箇所で2人の高名な人とユダヤ人に敵対する1人のサマリヤ人が登場する。強盗に襲われた同胞を無視したのは世間でもてはやされている高名な人の方で、おしげもなくユダヤ人に施したのはサマリヤ人であった。無視する、無関心を装う、という行為は私たちにありがちが行動だが、私たちは私たちをお造りになった神様と、神様の呼びかけを無視してはならない。なぜなら、私たちに目をとめてくださっている神様は、神様を無視していた私たちに自ら駆け寄ってくださる真の隣人である、愛にあふれた神様であるからだ。

 

7月20日
「死の恐怖からの解放」 ヘブル 9:27 

 人は様々な悩みや不安を持ちますが、ほとんどの悩み事の原因を辿れば死への恐怖へ繋がります。
 しかし、私達クリスチャンは聖書の約束により死への不安は取り除かれました。さらに聖書の記事から死後の裁きの恐ろしさを知ることが出来ますが、私達はその恐怖からも解放されています。
 この素晴らしさを忘れることなく日々喜びを持って歩んでいきましょう。

 

7月13日
「光の子どもらしく歩みましょう」  エペソ5:8 

 私たちが生きている間、良いことばかりではありません。家族が病気になったり、辛いこと・苦しいこと・悲しいことがたくさんあります。そのたびにあなたは、どうしようどうしよう・・・と、不安になるんじゃないでしょうか。そんなときはぜひ、神様のことを思い出してほしいのです。
 神様はあなたが辛いときも苦しいときも、どんなときでも共にいてくださいます。神様にとってあなたはとても大切で、かけがえのない存在なのです。神様はあなたのことを死ぬほど愛しておられます。この世にこれ以上の愛はどこにもありません。神様の愛に感謝して歩みましょう。

 

7月6日
「右の目・右の手3」 マタイ5:21〜22,27〜30 

 現在、地球温暖化は全人類が避けることができない大きな問題であると言われています。でもそれ以上に「人間の死」と「死後の裁き」は、人間にとって大きな問題です。この問題は避けては通れません。本当の幸せは、この問題を解決しないと得られません。
 神様は完全に正しい方です。ですから、神様は人間のどんな罪も必ず裁かれます。人間の隠れた所、内側、心の中まで見抜かれ、その罪を裁かれ、刑罰を与えられます。その刑罰とは、永遠に燃える「火の池」、地獄です。
 けれども、人間の罪に対する刑罰を身代わりに受けて下さった方が、イエス・キリストです。そのことを信じているのがクリスチャンです。だからクリスチャンは、刑罰を受けることはないのです。地獄へ行くことは決してありません。どうかイエス様による救いを信じてくださいますように。

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6月29日
「湧き出る喜び」 ヨハネによる福音書4:14 

 ある小説家のエッセイで、「人間の心は空き室から駄目になり崩壊してゆく木造アパートに似ており、心に隙間があるときには沢山の励ましの言葉を入れてやらねばならない」と語られていた。
 まさに図星であるが、では完全に私たちの心の隙間を埋めてくれる励まし、喜びとはなんだろう。多少の困難や悩みに遭遇しても決して揺るがない喜びではないだろうか。
 イエス様は御自身のいのちと引き替えに全人類の罪の赦しを完成させて下さり、彼を信頼する者には、永遠のいのちを与えて下さると約束された。永遠の安息こそが、人間にもっとも必要な人生の励みであり、喜びである。

 

6月22日
「愚か者は神はいないといっている」 詩篇53:1  

饅頭、という言葉は食べ物を指す言葉なので誰もその言葉から不快な
気持ちは抱かないが、もともとは「瞞頭」といわれ、中国でよく氾濫する河川があり、その治水目的で人の頭部を切断して川に流すという、いわば人柱がたてられていた虐殺の歴史にあって、人の頭に似せて作った小麦粉の塊を川に流して時の権力者を欺いたことが始まりといわれている。瞞、とはだます、という意味で、川を氾濫させる神を欺く、という意味もあった。さて、本当に神様を欺くことができるのだろうか。命をつくり、保っておられる神様は、被造物である人間にだまされるほど小さな存在ではない。しかし、人間は神様を過小評価し、自分の支配下におこうとする。これこそ最大の愚かな行為である。この態度は罪であり、神様によって裁かれる。同じ愚か、ということばが1コリント1:15神様の福音について示されている。神を無視する人にとってはキリストの十字架には愚か、すなわち無力であるが、キリストを信じる私たちにとっては、私たちは神様の買い取られ、神様によって理由があって生きている、ということが理解できる。さらに、人生のすべてにおいて神様はよきものを備え、あふれるほどに施してくださる。神様にあって、さらに救いのすばらしさの理解を深めて感謝をもって歩んでいきたい。

 

6月15日
「十字架の比喩としての幕屋」 ヘブル人への手紙 9章  

 ヘブル人への手紙9章を読むと比喩としての幕屋の説明が記されている。
幕屋は二つの部屋(聖所と至聖所)でできており、二つの部屋は垂れ幕によって仕切られている。至聖所には大祭司が、年に1度だけ中に入り、そこで民のために身代わりの犠牲をささげることになっている。
 イエス様が十字架にかかられたとき、幕屋の垂れ幕が真っ二つに裂けた。聖所と至聖所を仕切っていた幕が裂けたことは、神様と人間との間にある隔ての壁がなくなったことを意味している。イエス様は大祭司として、天という本当の聖所に入られ、ご自身の命を犠牲としてささげられた。その結果、全人類が大胆に神様に近づくことのできる道が開かれたのである。
 神様が用いられた「幕屋」という比喩は、イエス・キリストが大祭司であると同時に、罪を贖う身代わりの犠牲であることを示している。

 

6月8日
「右の目・右の手2」 マタイ 5:21〜22,27〜30 

 神様のご性質を漢字で表すとしたら、「愛」と「義」になります。神様は愛なる方、完全に愛なる方、徹底的に人間を愛されている方です。同時に神様は義なる方、完全に正しい方、徹底して正しい方なのです。そして神様は、人間が罪人であることを気づかせるために律法をお与えになりました。ですから神様の律法をきちんと理解すれば、人間は神様の前では正しいと認められない存在であることが分かります。そして義なる神様は、人間の罪を見逃すことはできません。人間を裁かなくてはなりません。でも愛なる神様は、愛している人間を地獄から救いたいのです。神様はどのようにされて、これを解決されたのでしょうか。それがイエス・キリストです。神様は、ご自分のひとり子であるイエス・キリストにすべて人間の罪を背負わせて、十字架で人間の身代わりに裁かれたのです。イエス・キリストの十字架によって、神様は愛も義も完璧に貫かれたのです。

 

6月1日
民数記より 

イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。」(民1:2)

イスラエル人は、主によって奴隷生活であったエジプトから救出されました。律法が与えられ、会見の幕屋が建設され、準備は完了し、約束の地へ出発します。その出発の前に、20歳以上の男子の人口調査がなされ、それぞれの部族に従って主の兵士が登録されました。 人口調査の記事は二回記されています(1章と26章)。それで「民数記」という名が付きました。以下省略
聖書による2種類の人間1.エジプトにいる人、「生まれながらの人間」(Iコリント2:14)…世にいる、まだ救われていない人のこと。
2.約束のカナンの地にいる人、「御霊に属する人」(IIコリント3:1)…約束の地に入った人。クリスチャン。

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5月25日
「人にはできないことが、神にはできるのです」 ルカ18:18〜27 

 ある高級官僚であり裕福な者が、イエス様に永遠のいのちをものにするための方法を尋ねた。イエス様は厳格な律法を守ることにある、と答えられたが、その人は臆面もなく「守っている」と答えた。しかし、貧しい者に施すために財産を手放すことについては、彼は非常に惜しんだ。結局のところ、彼は自分勝手で貪欲な者であり、神様の前に謙遜に、「救われたい」と望むより「いかにして永遠のいのちという宝を手にいれようか」と考えていたように見受けられる。人間は、この世でいかに高名な人物となり高い地位に至り、富裕層に組み入れられるなどいわゆる「成功」者になったとしても、そういった努力の積み重ねは、罪の赦しに関して何の役にも立たない。人間の努力によって過去の罪が帳消しになることはない。自分の罪を帳消しに、すなわち義と認められることは人間の力ではどうすることもできない。それは神様にしかできないことである。神の御子、イエス様の十字架の購いを信頼することだけが、唯一の救いの道である。

 

5月18日
「絶対的なこと」 ペテロT2:24 

 今の世の中をみているとBSE問題や食品の安全問題のように安全と思われていたものの、俗に言われる「安全神話」が崩壊してきている。また、自身に起こらないというようなことが起こっている。これはこの世の中で絶対的なものがないことを端的に示している。
 しかし、ひとつだけ絶対的なことがある。それは聖書に記されているとおり「イエス様が我々の罪を身代わりに受けるために十字架にかかって死に渡され、神様であることを示すために三日目の朝に復活したことを信じれば死後に天国にいく」ということである。このことは死後の永遠についてのことであり真剣に考える必要があり、信じることをすすめたい。

 

5月11日
「不安について」  マタイ6章24〜34節  

私たちは普段、目に見えるものに影響されて、喜んだり不安になったりします。
特に不安になることに関しては必要以上に敏感になり、いつも不安から逃れようとします。
聖書は私たちに「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」と言ってます。
全ての物事は神様の計画によって起きていることは聖書を学ぶことで明らかに解ります。ですから私たちは様々な不安にあれこれと動じることなく、まず神様の信頼して歩むことをお勧めします。

 

5月4日
「右の目・右の手」 マタイの福音書 5:21,22,27〜30

 「殺してはならない」「姦淫してはならない」はどちらも十戒の中に掲げられています。イエス様は、直接人を殺すことがなくても、人をばかにしたり、非難することも、罪であると指摘されました。姦淫というのは、結婚による男女関係以外に性を用いることです。イエス様は、情欲をいだいて女性を見ることも、神様の前では罪であると言われたのです。すなわち心の中で考えたり、口に出したり、目で見たりすることさえも罪であり、神様の前に罪のない者はいないのです。そして自分の力では、決して地獄から救われない、それが人間なのです。しかし、イエス様は人間の罪をすべて背負われ、身代わりに罪の刑罰を受けて死んでくださいました。そのことを信じた私たちクリスチャンは、完全に罪が赦されています。それだけではなく、イエス様は私たちを、罪の支配から解放し、本当の自由を与えてくださっています。そのことを確信しましょう。

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4月27日
「罪の赦し」 マタイによる福音書 12章31節 


人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。
ここでいう冒涜とは、失礼にあたる行為、畏敬の念を払わない、すなわち「無視」するということ。無視するということは、人格ある者に対する最大の罪だ。
神様を無視することは、神様に対する最大の罪であり、赦されるはずのない恐ろしいことだが、ひとたび私たちが罪を悔い改め、すなわち神様を無視する人生から、神様を信じて従う人生に方向転換するなら、神様はまさに「どんな罪をも」赦してくださる。その準備は、今から2000年前のカルバリの丘の上で整えられている。すなわち、神の御子、イエス・キリストが私たちの罪の罰を身代わりに引き受けてくださったのだ。ただ、信じるだけで、すべての罪が赦される。というこの約束を信じ、ぜひとも神様の御前に進み出ていただきたい。

 

4月20日
「アブラハムの信仰」 創世記 22章1節〜  

 神様は、アブラハムの信仰を試すために、彼がやっとの思いで授かった我が子の命をささげるように命じられました。アブラハムはその試練に対して、言葉だけでなく行動によって自分の信仰を示しました。神様は彼の信仰を義とみなされ、彼と彼の子孫を大いに祝福されました。アブラハムはなぜそのような行動ができたのでしょうか。アブラハムの信仰の確信は神様のみことば(約束)に基づいていました。だから彼は自分の息子の命をささげるという常識では考えられないような行動をすることができたのでした。
 同じように神様は私たちに、神様を信じる信仰による永遠の救いを与えてくださっています。この救いの確信は、神様のみことば(約束)に基づいています。アブラハムが持っていた確信と同じ救いの確信が私たちにも与えられているのです。感謝!

 

4月13日
「いのちの水」 ヨハネの福音書 4章13.14節  

 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」


 井戸から汲み上げた水は一時的に喉を潤すことはできても、時がたつとまたすぐに渇いてしまいます。ですから、人は何度も水を汲まなければなりません。それと同じように人間が作り出した喜びは、一時的に人の心を満たすことはできても、その喜びはいつまでも続きません。ですから、人は自分の心を満たすために、同じようなことを何度も何度も繰り返します。しかし、最後に残るのは空しさだけです。
 一方、イエス様がくださった救い、またそこから来る喜びはそうではありません。自分が天国に入れることはもちろん、そのことを人々に伝えることができるのはクリスチャンだけなのです。与えられるよりも与えることのほうが何倍も優れています。私たちは神様の救いを人々に与える(伝える)ことができる立場にいるのです。

 

4月6日
「起きて歩きなさい」 ヨハネの福音書5章1〜9節

 このベテスダの池にいた病人は「病気は直らないだろう」というあきらめの気持ちと、「自分の環境や周囲の人々が悪い」という不満をもっていました。イエス様はその病人の所に来られて、「よくなりたいか」と問われ、「歩きなさい」とお命じになりました。この病人と同じように、私たちも自分の罪に対して、あきらめたり、自分以外のせいにしていないでしょうか。そういう心の持ち方が、絶望や破滅に追い込むことがあります。でもそのような人間の所に、イエス様は来られます。
 イエス様は、私たちに対して「絶望の人生ではなく、希望にあふれた人生を歩もうとは思いませんか」と問われています。そして自分の力ではどうすることもできない罪を持った私たちが、永遠のいのちへの第一歩を踏み出すことができるように、イエス様は助けてくださいます。

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3月30日
第1コリント15章3節より 

 もしも自分のいのちが一日しかなかったとしたら、人は、残された日々を諸欲を満たすために使うのか、といえば、ほとんどの人が違うことに使うそうだ。アンケートによれば「謝りそこねていた人に謝罪する」など、あとくされを残さないようにするという回答が多かったそうだ。可能な限りきよらかでありたいと思うのは、死後に何かが待っているという未来観を抱いているからで、そういったところにも神様が働かれているからだ。
 さて、死に対する勝利を与えてくださるのはイエス様で、イエス様の死と復活があるから、信仰による救いを得られるのだ。十字架の死は壮絶で、イエス様が受けられた苦しみは目を覆わんばかりの残酷さだ。一方で復活は、歴史的事実である。聖書の記述では、復活の第一発見者は女性であったと記録されている。実は女性の証言は当時軽んじられていた。事実を証明するにはあまりにも証言として訴えかけが弱い。では、なぜ強力に訴えかけねばならないこの復活の事実について、いわば都合の悪い方法が選択され記録されているのだろうか。あくまで「事実」を優先し追及したからだ。事実をありのままにして伝えているのが聖書だからだ。イエス様の愛は、死ぬほどの愛なので、掛け値なしの愛といえる。事実であるということは、本物ということだ。
 掛け値なしの本物の愛、これこそが神様の愛だ。感謝しよう。

 

3月23日
詩篇121:1〜8 

 私は山に向かって目をあげる。私の助けはどこからくるのか。

自然の山をみて、一般的にはどんな感情を抱くだろうか。日本の俳人たちはその壮大さや偉大さに圧倒され、自然を相手として敬意を示す内容の文学を残した。だからこそ日本では自然崇拝が習慣化されたと思われる。聖書も「大空は御手のわざをつげ知らせる」とあり、自然の偉大さから創造者なる神様の栄光を知ることができる、とある。しかし詩篇の筆者はここで悩みを吐露し、救いを求めるような言葉を述べている。何事も憂鬱に感じてしまう人だったのだろうか。実はこの状況には背景がある。「巡礼者」とあるように筆者は聖地への旅を始めようという時だった。幾多の山を越え、聖地に無事たどりつけるのか、途中に危険や困難に遭遇しないだろうか、そういった不安を抱いたのだ。人生を旅にたとえると「一寸先は闇」である。信仰者は自らの旅、すなわち人生の困難や悩みについて「天地をつくられた主」に救いを求め、助けがあることを確信した。この確信こそ私たちが持つべき信仰である。

 

3月16日
「空の空」  伝道者の書 12章13節 

 「空の空。 伝道者は言う。 空の空。 すべては空。」 
 この書を記したソロモン王は多くの財産を手にしました。しかし彼は空の空(ためいき)の連続と人生を表現しました。最後に彼が見つけた答えはこの聖句にあらわされています。
 「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」
 羊を導く羊飼いの使う突き棒や幕屋を風から守る釘のように聖書の言葉は日々なくてはならないものです。

 

3月9日
「人生の中心」  ルカの福音書12章15〜21節  

医療の世界で今QOL(Quality Of Life=生命の質)という言葉がしきりに使われている。QOLとは限られた余命をどう生きるかということである。世の中でいわれているQOLは自己中心を許し、この世でどう生きるかを重視した考え方である。極端にいえばこの聖書箇所の金持ちのような生き方を許す生き方である。またこの金持ちはこの世中心の生き方をしていたが、どんなにこの世の中に財産などをたくわえたとしても死後には関係ないのである。だからそうではなく、我々の罪のために身代わりとなって十字架にかかってくださったイエス様と復活を信じ、神の前に富む者→神様中心に生きる者として歩むべきである。

 

3月2日
「何のために2」  マルコの福音書14章3〜9節  

 ナルドの香油はこの女性にとって、大切なものでした。その香油を女性はイエス様の頭に注いだことに対し、ここに居合わせた者は「むだ使いだ」と言って非難しました。しかしこの女性は、イエス様がこれから死なれることを知っていました。だから自分が愛するイエス様のために、今できることを精一杯したのです。この女性がイエス様に対してとった行動のように、「愛」というものは、計算できるものではありません。お金や時間には替えられないもの、それが「愛」です。そこには「むだ使いだ」という考えはありません。そして女性が香油を捧げたこと以上のことを、イエス様は私たち人間にしてくださいました。それが十字架による罪のあがないです。イエス様は私たちを愛し、ご自分のいのちを私たち人間に捧げられたのです。

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2月24日
「価値ある人生とは」  ピリピ4:6.7   

 ゲーテという人物は、詩人・作家・舞台監督・哲学者・自然科学者・政治家・ワイマール公国総理大臣とあらゆるジャンルで第一人者として活躍した有名人だが、これだけダイナミックな人生を送った彼も晩年は「結局私の人生は労苦と仕事以外のなにものでもなかった」と人生を振り返った。偉大なことを成し遂げても彼の心は満たされず、不安と心配の連続であったのだろう。実力者といわれる人でも心配事の種はなくならないらしい。人間は思い煩ってしまう。いつまでも悩んでしまう者であるが、神様は人間に「思い煩うな」「同じことで悩み続けるな」と語っておられる。悩んだり問題だと人生をとらえてしまうのはどうしてだろう。それは、「自分の思い通りにならないことは自分にとってマイナスだ」と決め付けているところにあるだろう。神様にあって合理的で価値ある人生とは、人生の中心、視点を自己にではなく神様にあてることが大切なのである。

 

2月17日
「何のために」 マルコの福音書14章3〜9節 

 この女性がナルドの香油をイエス様の頭に注いだ時、そこに居合わせた者は「何のために」と言いました。私たちは何のために勉強し、何のために体を鍛え、何のために働くのでしょうか。そして人間は「何のために」生きているのでしょうか。第一は「自分のため」に生きるのです。でも人間は成長し、知識を得ると、周りの人々のことを意識し、視野が広がります。そして、第二の目的「人のために」生きるようになります。しかし第三の目的を知ってください。それは「神様のために」生きるということです。人間は「神様のために」生きるものとして創造された存在であり、その目的にかなった時に、本当の幸せを得ることができます。でも人間は神様から離れ、神様がのぞまない歩みをしています。それが「罪」です。その罪を解決してくれるのが、イエス様の十字架なのです。

 

2月10日
「救われるために資格は必要か」 ルカ18:9〜15 

 私たちが罪赦され天国へ入るために、何か特別な資格が必要でしょうか。
 イエス様は、私たちのすべての罪の身代わりとして、十字架上で裁かれてくださいました。イエス様を信じた者は、信じる前の罪も信じた後の罪も、すべてが赦されます。うそのような話ですが、本当です。イエス様は言われました。

「まことにあなた方に告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

 何も難しく考える必要はありません。私たちが救われるためには何の資格も必要ありません。必要なのは、
まず自分の罪を認めること、それから、イエス様の死と復活を 「我が為なり」 と信じること、ただそれだけなのです。
 あなたも子どものような素直な心で、信じる者となってくださいますように・・・

 

2月3日
「聖書と科学」 出エジプト記7章〜 

 最近、NHKのドキュメンタリー番組で出エジプト記の奇跡を科学的に検証する番組が放送されました。検証した内容が神様の成された奇跡と一致しているか否かは解りませんが、一つハッキリと言えることは「聖書に記されている不思議な出来事は、ギリシャ神話などのものとは大きく性質が違う」ということです。
 科学が発達する以前までは聖書に記された奇跡もギリシャ神話などと同様に扱われていましたが、今では多くの人が認識を改めています。
 このように、人の力では為し得ない不思議な書物・聖書を更に知る機会を増やし、私たちに与えられた救いの素晴らしさを喜びつつ歩んでいける者になることをお勧めします。

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1月27日
「罪滅ぼし」  民数記21:4   

 エジプトを脱出した民は、神様から与えられた「マナ」のことを「無価値な食べ物」と侮蔑しはじめた。生きるために完全な環境を与えてくださり、安心のうちに置いてくださっているにもかかわらず、その与え主である神様に対してこう述べたことは、大きな罪である。私たちも同じく、つくり主である神様に「無視」という罪を犯した。神様に対する罪は、人間の力で「罪滅ぼし」はできない。それは人間が元来罪人だからだ。努力によっては救われない。しかし、神様に反逆したエジプト人がただ青銅の蛇を見上げただけで救われたように、高く十字架にはりつけにされたイエス様を見上げ、救い主と信じるだけで罪許される。まさに「罪滅ぼし」をされた方である。この方をぜひ救い主として信じていただきたい。

 

1月20日
「備えることの大切さ」 黙示録6章 マタイ24章より  

 1月12日の産経新聞に、「新型インフルエンザ恐怖のシナリオ」という記事が掲載されました。また、同日夜、NHKスペシャルで「最強ウイルス 感染爆発 パンデミック・フルー」という放送がありました。いずれも今人類が直面している新型インフルエンザに関する情報で、非常に危機迫る内容でした。「ウイルスは何者かに寄生しないと生きていくことができません。現在行われていることは人間とウイルスの生き残りをかけた戦いなのです。」「パンデミックが起こってから行動を開始しても、もはや手遅れなのです。今行動を起こさないと大変なことになってしまいます。」と司会の方が言っておられたのが非常に印象的でした。
 ノアの時代、ノアは神様から裁きがあるという警告を聞いたとき、そのことを信じ、すぐに箱舟建設という行動を開始しました。その結果、大洪水から救われました。皆さんも聞くだけで終わるのではなく、ノアのように聞いて行動できる人を目指してください。

 

1月13日
「ノアの箱舟」 第2ペテロ2:5 マタイ:24章38.39節

 ノアはその時代にあって神様に認められた唯一の人でした。彼は水で世界を滅ぼすという当時では考えられない神様からの言葉を信じ、ノアとその妻、彼の三人の息子とその妻、あらゆる動物を神様の命じられた通り箱舟を作りその中に導きました。そして神様が彼の後ろのドアを閉めました。最後にドアを閉めたのは彼ではなく神様です。
 私たち人間の最後(死)も私たち自らが決めるのではなく、神様がその〔時〕を定めます。どうか皆さんもいつその〔時〕が来ても備えができるようにイエス様という箱船に乗りましょう。

 

1月6日
「足を洗うイエス」  ヨハネ13章1〜20節  

 イエス様は弟子たちの足を、水で洗われたとあります。当時は靴や靴下などはありません。また舗装されていない道ですから、足はほこりまみれでたいへん汚れていました。イエス様はその汚れた足を洗うことによって、十字架のみわざを示唆したのです。
 イエス様は、足よりももっと汚い人間の罪を、水ではなくご自分の血潮で洗い流してくださいました。そのことを信じることによって、私たちは罪が赦され、永遠の滅びから救われます。イエス様は人々に仕えて、いのちを捨ててくださいました。そして私たちも人々に仕えていくように勧められています。
 私たちにはいろいろな仕事や役割があります。神様を覚えて、イエス様に感謝して仕事や役割をすすめていくことで、「仕え合うこと」ができます。

 

 

 
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